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2009年2月

2009年2月22日 (日)

久しぶりに曲をアップ

と言っても,最初の部分しか進んでいない。

何となく載せておきたい気分になったので。

「20081226.wma」をダウンロード

日付からわかるとおり,書き始めは去年の12月で,そこから全く進んでいない。
Ivoryを手に入れたので,その音の確認をかねて,作っている。

スコアは,Studio ftn。
一筆書きには便利である。

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2009年2月20日 (金)

エンターテイメントの役割

今日,エンターテイメントがあふれている中で,ふと何のために?
などと考えてみたりする。

実際,人が生きていくためにそれほど重要なものとは思えない。
しかし,それがない人生も全く考えられない。

人には,喜怒哀楽があり,それは人生を豊かにするのに役立つ。
簡単に言えば,その一つの助け,というか一つの器となるのがエンターテイメント,
だと思うが,いかがだろう。

当然,そこには感情やら,心やら,感動やら,という言葉がかかわってくる。
その観点からして,「真の」とか,「本物の」という言葉の意味を考察すると,
なかなか面白い結果を導き出すことができる。

結局のところ,より深い感動やら共感やらを与えたものが「本物」であると
認識されるわけだ。
そう認識されるまでに,その人がそれまで経験してきた事柄,知識,
また環境や性格が関係してくる。

そうするとエンターテイメントに関しては,常に「本物」は,相対的なものとなる。
そして,これが,学問になり得ない最大の理由だろう。

例えば,ブルックナーの第9番の第4楽章の問題を考えよう。
なかなか微妙なところまで作り上げていたという点が,ちょうどいい。
たぶん,今のところ,第3楽章までで十分,という意見のほうが多い。
私も以前はそう考えていた。

しかし,第3楽章のいかにも寂しげな「生への別れ」のメロディーが
第4楽章で(全く別の意味を持って)高らかに歌い上げられるのを聴いたとき,
第3楽章までで終わってしまうのがとても惜しいように感じた。

どちらがより感動を呼ぶか,と問われれば,ブルックナーが当初意図していた方,
つまり全4楽章版のほうだ。
補筆によって多少ゆがめられてしまっているとはいえ,そのアイディアに共感できる。

では,結局のところ,完成できなかったので,「本物」ではないのか,
と言われれば,そうではない,と答えるだろう。
確実に欠落している曲である,しかし,3楽章までは完成した。
ミロのヴィーナスではないが,それもまた美しい,ということになろう。

その辺のあやふやさが,私はエンターテイメントとしての本質を表わしていると思う。
特に,クラシックの作曲家は,それぞれがそれぞれの究極を求めてきた。
その結果が音楽史になっている。

しかし,何かの真理を見いだしたわけではない。
むしろ,エンターテイメントにそれを求めるほうが間違っている。

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2009年2月14日 (土)

ナマ演奏とパソコン入力

少し前になるが,私の書いた音符が,実際の音となって演奏されたことがある。
演奏がうまかったこともあり,とても感動した。

その音を聴きながら思ったのは,
やはり,どんなにがんばってもパソコン上で生成される音は,
ナマ音に到底かなわないということであり,
また,ナマ音を録音した時点でさえ,かなりその良さは削られるということである。

私は昔から,演奏者による違いより,曲そのものの持つ違いのほうがずっと重要だと考えてきた。
だから,演奏者がプロである限り,どんな演奏でもほとんど抵抗なく聴いてきた。
しかし,自分の作った曲のナマ音を聴いてみて,はっきり悟ることができた。
演奏者の違いもかなり大きい!

パソコンで生成された演奏は,非常に無味乾燥で,いろいろな面で損をしている。
当然といえば当然だが,人の情がまるで反映されていないので,表現力が乏しくなる。
ただ,それでもそれなりの表情ができるのは,音楽そのものの持つ力であると言いたいところだが,
実際には,人間の脳の処理能力によるものだろう。

人間の脳は,とても便利な勘違いをしてくれるので,単なる音の並びに意味を持たせてくれるのだ。
それゆえに,実際の音楽に似たものを入力すれば,それなりに聞こえる。
ただし,ある程度経験を積み,勘違いをなくす訓練を施すなら,簡単に見破れるものではある。
しかし,生演奏であるなら,直接に訴えかける力を持つので,
普段,偽物ばかりを聴いている耳には,とても新鮮であり,すばらしさもひとしおである。

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