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2009年4月

2009年4月30日 (木)

転調の必然性

もう一つ,どうしても書きたくて……。

もしかしたら,作曲初心者にとって,
転調というのは敷居が高いのかもしれない。
事実,私も昔は,転調という行為が何とも神懸かり的な技術のように感じていた。

しかし,ある程度,作曲に親しんでくると,
「なんだこんな簡単なことだったのか」と思えてくる。
つまり,この,「簡単なこと」という感覚が,新しいことを始める上で
非常に重要である。

転調を一切しない,あるいはせいぜい平行調(ハ長調とイ短調のような)くらい
しか使わないような曲では,1分ももたない。
確実に飽きられるのである。
どんなに音型やリズムを変えたとしても,まず無理だ。
どんなに感動的なメロディであろうともリピートして聞きたいとは思わない。
もっとも普通,感動的なメロディには自然に転調的要素が含まれている。
というか,実際には,それに気づかないだけで,
メロディの感動の要素は和音の工夫によるものであることが多い。
そのままではつまらないメロディも,和音次第で感動的になるのである。
このからくりに気づかないのは,実にもったいないことである。

ここで言う転調は,借用和音や副属七和音のような一時的なものも含まれる。
そのような技術は,簡単である上に,大きな効果を生むということを理解できれば,
用いないではいられないことであろう。

例えば,I-IV-V7-Iという極めてオーソドックスな進行のIVを
同主調(ハ長調の場合のハ短調のような)のIVに変えるだけで
驚くほどの,「もっと聞きたい」感が出る。
具体的には,C-F-G7-CをC-Fm-G7-Cという進行にする,ということである。
一回目は,オーソドックスに,二回目は代理和音を,みたいにしてもいいし,
最初から主要メロディに,この代理和音を埋め込んでもよい。
(たぶん,この方が一般的だろう。)
もちろん,G7をGm7に変えたり,Gm7(-5)したりしても,何の問題もない。
「この感じ,いい!もう一度聞きたい!」となること請け合いである。

上記のようなものを,普通,借用和音といい,他の調から一つだけ和音を借りてきて
埋め込んだというイメージである。
当然のことながら,一つだけでは飽きたらず,もっと使いたい,という欲も出てこよう。
もう,どんどん使ってよい。
ただし,どれが借用で,どれが本体かということは意識していないと
めちゃくちゃになってしまう。まあ,当然のことだ。

ほかの調の和音を使ったら,ついでにそのままその調に本格転調してしまってもよい。
その調で,いくらか和音を鳴らした後,元の調に戻ったり,
あるいは,さらに別の調に移っても構わない。

転調において一番重要なのは,どの調に転調するにしても,主和音と属和音だけは,
常に押さえておかなければならないということだ。
借用和音と一時転調の違いはここにある。
借用和音の場合,主和音と属和音は,主調のままであるが,
一時転調の場合,主和音と属和音が新しい調のものに移ってしまう。

繰り返すが,転調せずに,2分,3分と曲が進むと,
どんなにリズムや旋律の変化が伴っていたとしても
耳がその音律に慣れてしまい,最初の部分はいいかもしれないが,
最後まで聞き終わらないうちに,停止ボタンを押されてしまう。

いろいろな作曲初心者の曲を聴いて,とても残念に思うのは,
素材はいいのに,和音進行に工夫がないために,
その素材が死んでしまっている場合が多い,ということだ。

冒頭はいいのに,聞いていくうちに飽きてきて,
「おい,そろそろ転調しろよ!」とツッコミたくなる。
転調の概念がないためか,そういう人にとって,
町で流れている曲は,実はかなり頻繁に転調していて,
ほとんどそれで保たせているというのに,
それにさえ気づいていない,という状態なのだろう。
本当に残念である。

最後に,和音進行を工夫するだけで,どれほどのことが行なえるのかを示してみよう。
だれもが知っている「かえるの歌」。
このメロディを間奏を挟んで,2回繰り返す。
こんな感じだ。

 

何の変哲もないメロディが,新たに生まれ変わった瞬間である。
(大げさに言うと……)

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2009年4月16日 (木)

SkyDrive

今後新しい曲は,随時

    SkyDrive

にアップします。

2009年4月29日の新曲 「ピアノと弦楽のためのブルース 第3番」

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2009年4月13日 (月)

メロディ考(2)

メロディに見るクラシックとポピュラーの境目

これまで,私はクラシックとポピュラーの境目をずっと探ってきた。
最近,ようやくその接点を見いだすことができた,と確信している。
やっと気分が晴れたというか,これで何も思い残すことはない,という気分である。

ポピュラーの原点はどこだろうか。
私は今まで,それはジャズだと思っていた。
しかし,エリック・サティの有名な”Je te veux"の譜面を見たとき,
これがポピュラーの原型だと思うようになった。
もちろん,サティが元祖という意味ではなく,サティが普段よく接していた
フランスのシャンソンにその源流があると直感したわけだ。

シャンソンは,もともとカトリックの宗教的な歌が元になっている。
後に,世俗的な内容になり,物語性も加味されていった。
そして,カトリックの賛美歌にヒントを得ているので,
最初から旋法的な旋律なのである。
サティは,ドイツ的な機能和声にこだわらず,
カトリック的な(あるいはラテン的な)旋法による旋律を大胆に取り入れていった。

ドビュッシ-やラベルは,サティからの影響をより高度な方向へ発展させていったゆえに
そのことばかりが取り上げられ,それがフランス音楽の神髄であるかのように語られることが多いが,
しかし,間違いなくサティがドイツ音楽とは一線を画する方向を見いだしたと考えてよい。
この3人の働きは,ドイツ(オーストリア)のかの3人,すなわち,ハイドン,モーツァルト,ベートーヴェンの働きに,
その役割は異なるが,よく似たものに感じる。

”Je te veux"のいかにもフランスチックなメロディは,今の時代も古さを感じない。
それはこの音楽が,現在よく聞くポピュラー音楽と根幹の部分で類似しているからである。
このメロディ,少し分析してみると,特に冒頭の8小節は旋律と和音が必ずしも合っていないことがわかる。
7小節間,ずっとCの和音が鳴っており,8小節目でようやくG7になる。
しかし,旋律はというと,ラ,シ,ド,レ,ミだけが使われており,
しかも中心的な音はラとレである。
普通に考えれば,この旋律に内在する和音は,AmかDmであると思われる。
しかし,それを全部Cで済ませているのだ。

これが,響きにねじれを生じさせ,調性感を鈍らせ,独特の雰囲気を出している。
私なりの解釈では,ハ長調の伴奏の上に,ドリア旋法(あるいはイ短調)の旋律が乗せられている,
という形になっていると考えている。
ただし,終止の部分だけは,きちんとハ長調に戻り,曲全体のまとまりを作っている。
このような構造がドイツ的な堅実な響きと一線を画する要因となっているに違いない。

このことを検証するために,何曲か実験的に作ってみた。
(それが最近の幾つかの記事の中で紹介した曲である。)
ハ長調の上にニのドリア,ホのフリギア,イ短調などの旋律を乗せてみる。
すると驚くほどフランス的な響きになり,同時にポピュラー風の軽さが加わる。

たぶん,これがポピュラーの本質であると思われる。
実際,ハ長調の上にホのフリギア旋律を乗せると,事実上7の和音を鳴らしていることになる。
長調の上に平行短調の旋律を乗せても,あるいは,短調の上に平行長調を乗せても
同様の効果が得られる。

このフランス風の歌と伴奏形式(いわゆるシャンソンである)が,アメリカに渡り,
アフリカ,中南米系のリズムと結びついて,ジャズやポップスやロックに変わっていった
というのが真相のような気がする。

そして,いわゆるジャズ理論が7の和音を基盤としている理由はここにあると思われる。
7の和音を基盤にするということは,旋法性と機能和声を結合させた,ということである。

これが,私の新たな発見だ。
しかしながら,そのように説明する理論書は,私の知る限り皆無である。
たいてい,ジャズ,ポップス,ロックなどのポピュラー音楽は7の和音を基盤とする,
としか書いていない。
なぜか,ということがすっぽりと抜けているのである。

クラシック(ドイツ)系の三和音を基盤にすると,調性ははっきりするが,
表現があまりにストレートすぎて,ラテン系の歌には向かなかったのだろう。
セブンスコードやテンションノートを多用することにより,
つまり,機能和声に旋法的要素を加味することにより,
調性が曖昧になり,表現の幅が広がる。

それで,もしポピュラー系の曲を書こうと思うなら,
ジャズ理論に基づいた和音進行をするか,
旋法的な旋律に機能和声の伴奏を付けるようなことをすればよい,ということになる。
(どちらも結局は同じことだからだ。)

機能和声的な理論,またはドイツ的な理論体系を持ち出しても,
ポピュラー音楽にはならない理由はここにある,ということがやっとわかった。
その実体はフランス音楽であり,旋法的な体系がその基盤にあるのである。

恐らくほとんどの音楽大学では,ドイツ的な機能和声理論が中心である。
フランス的な音楽は,せいぜい亜流として紹介される程度だろう。
しかし,今やその亜流のほうが音楽界の趨勢を占めている。
そのことを明らかにしないのはなぜなのだろう。

確かに,機能和声の上に旋法理論が載っているのがフランス的な音楽である。
だから,まず機能和声を優先させるのはわからないでもないが,
そこで終わってしまったら,とても不親切ではないかと思う。

恐らく,ポピュラーの作曲家は,ジャズ理論を勉強するかもしれないが,
フランス的な旋法音楽がその基盤にあるということはあまり意識しないかもしれない。
(ジャズのモードとは異なる考えだ,念のため。)
また,いい加減な和音伴奏を付けても,それなりに聞ける音楽になる理由も理解できる。
メロディは必ず何らかの旋法的な要素を含んでいる。
その旋法的な要素は,必ずしも機能和声と結びつける必要はない。
別種のものを同時進行させても,きちんとまとまるのである。
これは後に,複調の考えに進み,ジャズの複雑なテンションノートへと進む。
ドイツ音楽の歩んだ道とは異なるのである。
ドイツの場合,結局のところ調性に基づく無限の転調へ進み,
最終的に無調へと進んでいった。

まあ,ある意味,フランス流の音楽のほうが息が長かったのかもしれない。

さて,これで終わりにしよう。
今後は,新しい曲を書いたら,SkyDriveにアップしようと思う。
ブログはこれで終わりだ。

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メロディ考(1)

メロディとは

メロディとは何だろうか。簡単に定義すると,「制御された音の線の流れ」のことである。
だから,歌えなければならない,とか,定型の終止がなければならないとか,
繰り返さなければならないとか,そういうことはメロディたる資格には関係ない。
曲として完成させる際の音楽流儀の一種ととらえることができる。

例えば,お寺の鐘のゴーンという音も立派なメロディである。
あるいは,ドラムソロでさえ,メロディーを形成している。
もちろん,適当に口ずさむ旋律も立派なメロディである。
それで,メロディそのものを作るのは,全く難しくなく,誰でも作れる。

ただ,それをまとまった一つの曲に完成させようとするとき,
多少の技術が必要となるわけだ。

私にとっては全く最近まで知らなかったことであるが,
意外に作曲家を志望している人は多いようである。
そして,その多くは,物心付いてから作曲に興味を持った人間ばかりである。
従って,専門的な技術を身に着けることに必死になり,
自己流ではありつつも,本を読みあさり,練習してそれなりの曲を書こうとする。
あるいは,形からはいる人も多いことだろう。
当然のことだし,方法として全く間違っていない。

そのような人たちにとっての関心は,「音楽理論」をどの程度学んだらよいのか,
ということであろう。
先ほども書いたように,メロディそのものは簡単に作れる。
しかし,それをよく聴くような曲に仕上げるには,
きっと音楽理論を学ばなければならないと感じる。
もっともあとで気づくことになるが,実際には音楽理論などほとんど知らなくても,
曲は作れるということを知り,何となくだまされた気分になるはずだ。

中には,音楽理論というものがあまりにも無味乾燥すぎで,
それを学ばなければならないのなら,自分には無理,と決め込んで
あきらめてしまう人もいるかもしれない。

では,心に浮かぶ一つのフレーズを一つのまとまった曲にするにはどうしたらいいのか。
その点を考えてみたい。

まず,それを楽譜に起こす必要がある。
最近はコンピュータがあるので,比較的簡単にできるだろう。
ここからどうするか,はその人がどれほど知識を持っているかで異なってくる。
それで,最低限,和音の終止と何らかのリズムの繰り返しが必要という知識はある,と仮定する。

例えば,I-VI-II-V7という便利な和音進行(循環コード)をとりあえず使えばいい,という知識があったとする。
伴奏にこの和音進行を使っていれば,ほとんどどんなメロディでも乗せられることに驚くはずだ。
4小節の旋律を作りさえすれば,あとはそれをそのまま繰り返してもいいし,ちょっと変形させて繰り返しても良い。
適当なところで,最後にIの和音を鳴らして終わらせれば,立派に一曲完成できる。

メロディを作るのは簡単,伴奏を付けるのも簡単,であれば,一曲完成させるのも簡単だ。
もちろん,これは最低限の曲を作るという意味であって,完成度の高い曲を書くということではない。
しかし,作曲することは本当に簡単なことなのだ,ということが実感できれば大きな収穫である。

きっとこうした曲を書いていくうちに,完成が成長し,より完成度の高い曲ができるようになるのであろう。

ついでながら,よく,歌えなければよいメロディとは言えない,ということを聞くが,
全くのでたらめである。
確かに,歌えなければ,「歌」とは言えないが,メロディはいつでも「歌」なわけではない。
ポップスやロックなど歌ものの音楽が多いので,ついそう言いたくなるのだろう。
もっともロックなどは歌ではない曲も多いので,そういう曲を何と彼らは評するのか
聞いてみたいものだが,いずれにしても自分の嗜好の押しつけはよくない。

それから,だれでも口ずさむことができて,長年歌い継がれていくようなメロディが,
よいメロディであるというようなことを言う人もいるが,
(まあ,そう思いたい気持ちは理解できるが)それも正しい見方とは言えない。
以前から何度も言っているように,メロディそのものだけではなく,
いろいろな要素が,楽曲を歴史に残している。

ばかげたメロディでも,その時代背景や,時代の特徴を捉えているものであれば,
それなりに残っていく。
歌っている歌手や作曲した人間がだれであるか,ということも無視できない要素だ。
後に偽作だということがわかって,突然消えてしまうという摩訶不思議な現象が
その意味するところを物語っている。

いろいろな要素が絡み合って,「名曲」になるのであって,
メロディそのものの力など大したことはないのだ。

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2009年4月12日 (日)

今週中には

なかなか最後の記事が書けないことには理由がある。

一つに,時間がない点が上げられるが,
もう一つの理由として,「新たな発見」に関する裏付けを取るのに
時間がかかっているのである。

「新たな発見」があったからと言って,そのまま載せても
もう少し調べてみたら,それが単なる誤解に基づくものだった,
ということはよくあるものである。

そういう事態は避けたい。
しかし,もうだいぶ整ってきた。
今週中には,アップしたい。
もしかしたら,前半後半で,二つの記事になるかもしれない。

ついでながら,その新しい発見の実験のために書いた曲を
もう少し紹介しておこう。

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2009年4月 8日 (水)

最近の発見を試す実験の曲

これも,とりあえずの第2弾。

時間ができたら,最後の記事を書く予定。

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2009年4月 6日 (月)

なかなか時間が……

もう書く内容は決まっているのだが,時間が取れない。

とりあえず,その説明のために実験的に書いた曲だけアップ。

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