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2009年6月12日 (金)

曲が書けるということ

以前に示したことであるが,例えば,「かえるの歌」のようなつまらない旋律でも,
和音進行によって,かなり雰囲気を変え,説得力のある旋律に見せることも出来る。
他にも,伴奏型を変えることによっても,かなりの変化を持たせることが出来る。

なので,童謡のような旋律だからといって,
それだけで「かっこわるい」と断定してしまうのは,
自らの技術のなさを露呈させているにすぎない。

童謡のような旋律をかっこよく見せ,かっこいい旋律を童謡のように聴かせる,
このような技術を持って初めて,旋律のなんたるかを語ることが出来ると思うのだが,
どうだろう。

同じことは,和音進行に関する知識,またリズムに関する知識についても言え,
様々な形態の音楽を書くことが出来て初めて,
それらを理解したと言えるのではないだろうか。

単なる憶測で,あるいは妄想で,良い曲とはこういうもの,と論じたとしても,
何の説得力もなく,何も言っていないに等しい。
可能ならいつでも,言葉ではなく,音楽を示す必要があるだろうし,
自分で書けないなら,
最低限,他の人の曲(特に有名な曲)を分析してみせる必要がある。

ところで,ここのところ,同じ曲を少しずつ変化させて紹介しているが,
それは,理論を理解するとはどういうことかを示すためである。
特に気に入っている曲というわけではない。
実際,旋律,和音進行,リズムすべてにおいて,
ほとんど機械的に書いた曲である。
それでも,きちんと曲として認知されるであろう。
時間と気力があれば,何曲でも書くことが出来る,という類の曲だ。

つまり,なんらインスピレーションがなくても,曲は書くことが出来る。
それが,理論を理解するということだ。
そして,インスピレーションによるひらめきがあったとき,
その理論は,それを推進させる力となる。

インスピレーションだけなら,たいてい数小節で切れてしまう。
それを効果的につなぎ合わせ,曲として完成させるのが理論なのだ。

曲をまともに完成させる力のないうちは,とても理論を理解しているとは言えない。

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